在日ベトナム人を中心とした人権教育の課題

2006年
金子 正人
横浜市立いちょう小学校


1.主題設定の理由

(1)社会的背景と現状

 グローバル化する社会経済や、地域紛争、南北間格差の増大等により、国境を越えて移動する人の数は増加の一途をたどっており、日本における在住外国人も近年急激に増加している。法務省出入国管理統計によれば2004年末の外国人登録者数は、197万人で過去最高を更新した(表1)。80年代中盤までは、在日韓国・朝鮮人や中国人などの旧植民地出身者(以下「オールドカマー」)の占める割合が80%以上であったが、韓国・中国・フィリピン・タイ・ベトナムなどのアジア地域やブラジル、ペルーなどの中南米地域から新しく日本にやって来る新来外国人(以下「ニューカマー」)が増え、特に90年に出入国管理及び難民認定法(以下入管法)が改正され、日系人の単純労働での入国が認められて以降は、ブラジルやペルーなどからの出稼ぎ者が急増している。

2004年4月14日には日本経団連が「外国人受け入れ問題に関する提言」を行い、外国人労働力の積極的導入を促すなど、今後も外国人の数は増えることが予想される。

しかし、多くの外国人労働者は、日本人が働きたがらない、いわゆる3Kとよばれる職場での労働を余儀なくされ、雇用や社会保障の面でも不安定な状況におかれている。

表1 在日外国人の状況
  1985年(全国) 1995年(全国) 2004年(全国) 2005年(横浜市)
1.外国人登録者数(人) と国籍別人数()内は% 85万 136万 197万 6.9万
韓国・朝鮮 683,313(80.3) 666,376(48.9) 607,419(30.8) 15,851(22.7)
中国 74,924(8.81) 222,991(16.4) 487,570(24.7) 24,101(34.6)
ブラジル 1,955(0.23) 176,440(13.0) 286,557(14.5) 3,942( 5.6)
フィリピン 12,261 (1.44) 74,297( 5.5) 199,394(10.1) 6,882( 9.8)
ペルー 480(0.06) 36,269( 2.7) 55,750( 2.8) 1,783( 2.5)
ベトナム 4,126(0.49) 9,099( 0.7) 26,018( 1.3) 1,350( 1.9)
2.外国人児童生徒(人) 外国にルーツをもつ子 97,496
調査なし
90,243
調査なし
76,002
調査なし
2,297
2,386
3.日本語指導を必要とする 外国人児童生徒(人) 調査なし 11,806 19,678 649
ルーツをもつ子248
1.法務省『出入国管理』 2.文科省「学校基本調査」 4.文科省「日本語指導が必要な外国人児童生徒の受入れ状況等に関する調査」
横浜市のデータは 横浜市統計ポータルサイト 横浜市教育委員会「2005年度横浜市立学校外国人児童生徒在籍状況」による

(2)子どもの状況をめぐって

 上こうした社会的背景のもと、日本語のわからない外国人の子どもや、「外国にルーツをもつ子ども」(国際結婚で生まれたり、帰化したりして国籍上は日本人であるが民族的には外国にルーツをもつ子ども)が、学校に編入学してくるケースが増えている。このような子どもたちの多くは言語の問題だけではなく、社会的にも経済的にも様々な困難を抱えている。さらに不就学も大きな問題であるが、抜本的な解決策は示されておらず、実態の解明すら進んでいないのが現状である。

(3)研究主題について

 このような状況を直視し、外国人の子どもや「外国にルーツをもつ子ども」(以下両者を含む場合は「外国につながる子ども」と表記)の人権教育の課題を明らかにすることは、今後ますます増えるであろう「外国につながる子ども」と向き合う上で、重要なことだと考え、上記の主題を設定した。

本研究では、ベトナム人を中心として取り上げている。なぜベトナム人なのかといえば、筆者自身が長くベトナム人の子どもの教育に携わったことと、「ニューカマー」の中でも数の少ないベトナム人の子どもの研究がほとんどなく、その実態の解明すら進んでいないことによる。本研究を通してベトナム人の子どもの実態を明らかにし、人権教育の課題を探っていきたい。

研究の理論的枠組として人権教育を取り上げるが、海老原治善*1によれば人権教育には「人権としての教育」と「人権についての教育」という二つの側面がある。「人権としての教育」とは、教育を受ける権利であり、「人権についての教育」とは、人権諸条約についての教育や、障害者差別、部落差別、外国人差別など個別の課題についての教育であるが、その内容は、侵略や差別に対する抵抗の歴史と実践についての教育とまとめることができる。この二つを明確に分けることは難しいが、本研究では二つの側面を中心にベトナム人の子どもの実態を明らかにしていく。

研究の手順として、まず、ベトナム人の子どもがなぜ日本にいるのかを明らかにした上で、「人権としての教育」の現状と課題、「人権についての教育」の現状と課題について考察したい。その際、課題をより明確にするために、分析や記述の対象を外国人一般に広げた。

そして研究の過程で明らかになったことを、授業実践案としてまとめ、ベトナム人の子どもたちがベトナム人であることを肯定的にとらえ、在籍学級で自信をもって生きられるようにしたい。さらに日本人の子どもたちがベトナム人の子どもたちを理解し、尊重していけるようにしたいと思う。

2.研究内容

(1)在日ベトナム人の歴史

「外国につながる子ども」の教育を考える上で欠かせないのは、それぞれの国籍や民族の子どもたちがなぜ日本にいるのかを理解することである。そこで、まず日本の学校で学ぶベトナム人の子どもがどのような経緯で日本に定住したのかを振り返る。

(1-1)ベトナム難民の発生と日本への定住

1975年4月30日ベトナム戦争が終結し、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)は相次いで社会主義体制に移行した。新体制の下で迫害を受けるおそれのある人々や新体制になじめない人々が難民として周辺諸国に流出した。これらの人々を総称してインドシナ難民といい、その総数は144万人に達する。

ベトナムでは、旧南ベトナム軍や政府の関係者、アメリカとつながりの深い企業の関係者などが、撤退するアメリカ軍とともに脱出した。有力者がアメリカ軍の用意した航空機や船で避難する一方、一般の人々は、小さな漁船などで海へ脱出し(ボート・ピープル)、近隣国へ漂着したり、外国船に救助されたりした。しかし、海上を漂流する途中で命を失った人も多かった。難民の流出は1975年以降も断続的に続き、特に79年の中越紛争時には中国系ベトナム人が大量に流出した。80年代後半にも再び大量の難民が流出するが、貧困や生活苦から逃れるための出国で、北部出身者が大半を占めていた。そのため現在日本の学校で学ぶベトナム人の子どもたちも多様な背景をもっている。

日本は当初難民の受入には消極的であったが、受入諸国からの批判におされ最終的には1万1千人あまりの難民を受け入れた。2005年現在、難民として日本に住むベトナム人は8,587人で、インドシナ難民の大半を占めている。

*1海老原治善「人権教育を激動世界をふまえて考える」『解放教育』1991年4月

日本への定住を希望する難民は、姫路市(1979〜96年)と大和市(1980〜97年)に設置された「定住促進センター」や、東京都品川区に設置された「国際救援センター」(1983年〜現在)等で日本語教育や社会適応教育を受けた後、各地に定住した。センター入所中の子どもたちは、日本語指導を受けた後、地域の学校に体験入学し、日本の子どもたちと一定期間過ごした後定住先の学校へ転出した。1980年からは、国連の合法出国計画(ODP)に基づくベトナム人の家族呼び寄せプログラムを政府が許可したため、学齢期の子どもたちの数が増えた。この制度は2004年まで続き、2,600人のベトナム人が渡日した。

この間の日本政府の外国人施策に大きな影響を与えたのが1979年の「国際人権規約」(1966年に国連総会で採択)と81年の「難民条約」(1951年に国連で採択)の批准である。それまで日本政府は「外国人は煮て食おうと焼いて食おうと勝手」(池上努『法的地位200の質問』京文社、1965引用)という方針で外国人(旧植民地出身者)を管理の対象としてしか見てこなかったが、外国からの批判や国内の運動におされる形で、上記の規約と条約を批准した。その結果、いくつかの国内法の国籍条項が撤廃された。

その後インドシナ三国の政情の安定化にともない、難民の流出は止み、現在ではインドシナ難民問題は一応終息したといわれている。それにともない国内での難民支援事業も縮小し、2004年3月にはベトナム人の家族呼び寄せが終了し、2006年には最後まで残っていた「国際救援センター」が閉鎖されることが決まっている。

(2)在日ベトナム人の「人権としての教育」の現状と課題

それでは、日本に定住したベトナム人の「人権としての教育」(教育を受ける権利)は、保障されているのであろうか。他の在住外国人の実態も含めて考察する。

(2-1)「人権としての教育」の現状

1948年に国連総会で採択された世界人権宣言では「すべて人は、教育を受ける権利を有する」と宣言され、それを具体化するためにつくられた「国際人権規約」「児童の権利条約」(1989年に国連総会で採択)が、国籍や民族に関わりなく全ての人にその権利を認めると規定している。日本は上記の規約と条約をそれぞれ1979年と94年に批准しているので、当然外国人にも教育を受ける権利を保障する責任を負っている。さらに「国際人権規約」には民族的少数者が「自己の文化を享有し、(中略)自己の言語を使用する権利を否定されない」とあり、在日外国人が母国の言葉や文化をもち続けることは、当然の権利として認められている。

しかし、実際にはその権利が保障されていない。2000年3月7日参議院議員福島瑞穂氏が、参議院議長に提出した「外国人の収容に関する質問主意書」とそれに対する答弁書は、教育を受ける権利を奪われている子どもの実態を端的に示している。それによると、1999年の一年間に、在留資格がないなどの「入管法違反」で新たに収容された20歳未満の者の人数は558人で、その国籍別人数、年齢別人数は表2、3の通りである。この中には、実際に学校に通っていた子どもたちが含まれている。ある日突然、入国管理局によって収容施設に収容され、最悪の場合そのまま国籍国に強制送還されてしまうケースもあった。このような国の方針に対し、豊中市国際交流協会などが中心となり反対運動を展開した結果、現在では子どもだけを児童相談所などの施設で保護するように方針転換されたが、家族の分離という新たな問題を生んでいる。

表2国籍別収容人数(人)
中国 285 フィリピン 84 韓国 69 タイ 36 ベトナム 1
表3年齢別収容人数(人)
〜5才104 5才〜10才 40 10才〜15才 35 15才〜20才 379

「学校教育法」も外国人の子どもの教育を保障していない。同法は「外国人学校」を「各種学校」としか認めておらず、長い間、卒業しても高校や大学の受験資格が得られなかった。そのため民族学校で学ぶことを断念する子どももいた。2003年9月19日に学校教育法施行規則と2つの文科省告示の改正が行われ、インターナショナルスクールや、中華学校、韓国学校等には大学受験資格が付与されたが、朝鮮学校の卒業生に対する受験資格の有無は、各大学の判断に委ねられた。さらに、民族学校には公的補助がほとんどないため、高い授業料を払わなければならず、経済的に困窮する家庭では民族教育を受けられないという問題点もある。

次に、経済的理由から教育を受ける権利を奪われている実状をみてみることにする。2000年の国勢調査によれば、ベトナム人労働者の80%近くが生産工程・労務作業に携わっており、失業率は6.7%で、日本人の1.4倍と高くなっている。生活保護を受けているベトナム人の割合も日本人の割合に比べ、4倍近いと推定される。(表4)

また、義務教育段階の子どもに対する、就学援助(生活保護を受けている子どもと、市町村が独自の基準で生活保護に準じる程度に困窮していると認定した子どもに対し、文房具代や給食費、修学旅行費などを援助する制度。受給率の全国平均は12.8%=「朝日新聞」2006.1.3)の受給率も高い。兵庫県のある小学校では、2004年度、在籍する36人のベトナム人児童中、35人が就学援助を受けている(「毎日新聞」2005.6.4)。神奈川県内の別の小学校でも、2005年度、70%近いベトナム人児童が就学援助を受けている。(筆者調べ)こうした数字を見る限り、ベトナム人家庭の多くは経済的に困窮していることがうかがえる。

表4 生活保護実態と就労実態
  A生活保護受給世帯数 B被保護人数(人) C総人口(人) B/C受給者割合 D生産工程・労務作業従事者割合
ベトナム人 357 1,100(推定) 23,853 4.6% 79.4%
日本人 941,270 1,344,327 127,619,000 1.0% 29.3%
AB:厚生労働省「被保護者全国一斉調査」2003 C:総務省統計局人口推計2003 D:2000年国勢調査

このような経済的困窮は、子どもたちにどのような影響を及ぼしているのであろうか。2004年文科省学校基本調査によれば、高校進学率は、日本人生徒の98.7%に対して、外国人生徒は50%前後であると推定される。外国人の子どもたちの高校進学率が低い背景には、家計を助ける目的で高校へは進学せずに働いたり、技術の習得を目的に専門学校に通ったりする子どもの存在がある。また、定時制高校に進学し、昼間働く子どもも少なくない。さらに、高校の先生への聞き取り調査から、外国人生徒の退学率の高さも明らかになっている。進学したものの、日本語の問題で学習が十分理解できなかったり、学費が払えなかったりして中途退学する外国人生徒がいるという。実際に「定期代がかかるから、自転車で通える学校を選ぶ」と話しているベトナム人の子どももいた。(2005年10月「高校進学ガイダンス」参加者からの聞き取りによる)

家庭の経済的困窮は、子どもたちの進路選択の幅を狭め、教育を受ける権利を奪っている。進学率の低さや中退率の高さは、高卒以上を就職の条件とする多くの会社から外国人の子どもたちを遠ざけている。必然的に、学歴や言葉があまり重視されない、単純労働に従事する子どもたちが増え、経済的な困窮は解消されず、再生産されていく。

さらに、教育行政や現場での対応が壁となって教育を受ける機会を失っている子どもたちもいる。

1991年には香川県善通寺市教育委員会が日本語ができないことを理由にブラジル人の子どもたちの就学を拒否して問題になった。また、外国人登録をしていないことを理由に就学を拒否する学校や教育委員会はいまだに少なくない。さらに非行を繰り返す生徒を退学処分にする学校もあるが、外国人に就学義務がないことを根拠として学校から排除することは、「世界人権宣言」や「児童の権利条約」の趣旨に明らかに反している。就学が許可されても、日本語指導の不備で不就学となる子どももいる。日本語指導は多くの学校で実施されているが、日本語指導が必要な子どもの判断基準はなく、現場での判断に委ねられているため、日常会話ができるようになると指導が行われなくなるケースがほとんどである。

しかし、在籍学級での学習に参加するために必要な「学習言語」の習得には5年〜7年かかるとされる研究もあり、初期指導終了後も継続的な日本語指導が行われる必要がある。こうした指導が行われず、学習内容を理解できない子どもたちは、「学習困難者」とされ、中には教室にいることが苦痛となり中途退学してしまう例もある。

そのことを裏付ける数字が2006年1月17日付「毎日新聞」に掲載されている。2004年に、岐阜県可児市が義務教育年代の外国人370人の就学状況を調べたところ、不就学の子どもが約7%おり、「学習困難」「経済的理由」が理由の上位に並んだという。

(2-2)「人権としての教育」確立に向けた動きと今後の課題

このように、「外国につながる子ども」たちがおかれている状況は非常に厳しいものがあるが、「人権としての教育」を確立していこうとする動きも早くから起こっている。「オールドカマー」である在日韓国・朝鮮人の「人権としての教育」確立に向けた動きは、民族教育を取り戻す取組として始まり、戦後1年足らずで500を超える民族学校が全国に開設された。しかし、日本政府は1948年1月24日「朝鮮学校設立の取扱いについて」という通達を出し、朝鮮人の子どもたちを公立学校に強制的に就学させようとした。この通達以後朝鮮人学校を事実上閉鎖する措置がとられたが、これに対して朝鮮人は激しく抵抗し、民族学校の存続を勝ち取った。

公立学校において在日韓国・朝鮮人の「人権としての教育」を考えていこうとする動きも戦後に始まっている。1953年に開催された日本教職員組合の第2回全国研究集会では、差別や同化圧力に苦しむ子どもたちの実態が報告されている。1971年には、大阪の教職員が中心となり「公立学校に在籍する朝鮮人子弟の教育を考える会」を発足させ、その後(1983年)の「全国在日朝鮮人教育研究協議会」設立につながっている。大阪でのこうした動きは、同和教育の取組とも深く関わっている。

横浜市では、1978年に在日韓国・朝鮮人の子どもたちの集いの場として「信愛塾」が設立され、母語教室や韓国・朝鮮学習会などを開催するとともに、民族差別と闘う活動を推進してきた。

一方、「ニューカマー」の子どもたちの「人権としての教育」を確立しようとする動きは、70年代の中国や韓国からの帰国者の子どもたちへの教育として始まる。東京都の葛西小学校には、1974年に日本語学級が設置され、日本語指導教員が配置された。葛西小学校の教師達は、早い段階で韓国や中国と日本という二つの国の間で引き裂かれていく子どもの内面に気づき、中国人や韓国人としての自分を肯定的にとらえることのできるような実践の重要性を訴えている。80年代になるとインドシナ難民の子どもたちへの教育が始まり、「定住促進センター」を学区にもつ大和市の南林間小学校では、地域を上げて難民の理解を深め、差別意識を解消しようとする実践を行っている。90年代になり、「ニューカマー」の子どもたちが増加すると、こうした動きは活発化する。この運動の特徴は、教員のみならず、ボランティア、研究者、国際交流協会などより広い範囲の人々が加わって、外国人の人権を擁護していこうとする傾向をもっている点であろう。不就学の子どもたちへの支援や学校を超えた居場所づくりなどを行いながら、差別撤廃に向けた取組を行うNPOなどが各地で立ち上がっている。

文科省も増加する外国人児童生徒への対応を迫られ、1992年には日本語指導教員の追加配置事業、93年には母語を理解する協力者の派遣事業、95年には外国人児童生徒への就学案内の作成事業等を行ってきた。しかし、日本の学校になじめず中途退学する子どもが増えたことから、現場の実態に合わせる形で、2004年から「母語を用いた帰国・外国人児童生徒支援に関する調査事業」(以下「母語を用いた支援事業」)を、05年からは、「不就学外国人児童生徒支援事業」等を行っている。

横浜市では1981年に起きた在日韓国人児童への民族差別事件をきっかけとして、在日外国人児童生徒の人権を尊重する教育の重要性が認識されるようになった。91年には「在日外国人(主として韓国・朝鮮人)にかかわる教育の基本方針」が策定された。国の事業に合わせて92年には、日本語指導を行う「国際教室」(教諭による指導)が、93 年には母語を理解する指導協力者が講師を務める「日本語教室」が開設された。

また、各地でボランティア団体や、教職員組合、教育委員会などが主催する「高校進学ガイダンス」「母語による進路説明会」などが開かれるようになり、進路選択への理解につながっている。このように「外国につながる子ども」たちの「人権としての教育」を確立していこうとする動きは外国人が集住する地区を中心に確実に広がっている。

しかし、「外国につながる子ども」が少ない地域では、問題が見えにくいため、権利確立への動きが活発とはいえない。「人権としての教育」は全ての子どもに保障されるべき権利であるから、今後こうした動きを全ての学校や地域で具体化させていくことが課題である。

(3)「人権についての教育」の現状と課題-在日ベトナム人との関係を中心として-

「人権についての教育」とは、侵略や差別に対する抵抗の歴史と実践についての教育であると定義されている。在日朝鮮人教育や同和教育の実践の中では「人権についての教育」が位置付いているが、「ニューカマー」の子どもたちへの教育実践で「人権についての教育」が確立されているとは必ずしもいえず、各地で教師が模索を続けている。そこで「オールドカマー」である、在日朝鮮人の抵抗の歴史や告発から、民族的アイデンティティの基盤となる母国の言葉や文化をもち続ける権利に着目し、そうした権利を確立していこうとする動きを中心に考察する。

(3-1)「外国につながる子ども」たちの「人権についての教育」のあゆみと現状

公立学校における在日外国人への教育は、戦後引き続き日本に留まった在日朝鮮人に対する教育として始まった。しかし、当時は、政府やGHQの施策を反映し、日本人に同化させることを目的に教育を行っており、同化できなければ民族学校(朝鮮人学校)に行くことを迫る「同化か排除か」の教育だった。こうした方針の下では、日本人になりきることが求められ、朝鮮人としてのアイデンティティを大切にするという考え方は抑圧された。これに対して朝鮮人は、民族教育の正当性を主張し、粘り強く抵抗運動を展開するが、日本政府の方針は容易には変えられなかった。そのため、戦後長い間、在日韓国・朝鮮人の子どもたちは、日本の公立学校で、民族的アイデンティティを獲得するために大変な苦労を強いられることになる。

では、「ニューカマー」の子どもたちに対する教育は、在日朝鮮人に対する教育の反省を生かしているといえるのであろうか。「外国籍県民かながわ会議」の委員を務めた在日朝鮮人の_安(ペイアン)氏は「学校現場も行政も地域も外国籍の子どもたちの母国語教育やアイデンティティ教育には多くの場合無関心で、その必要性すら認識せずにいた。過去の問題は解決に向けての方策すら何ら示されないまま現在に持ち込まれ、(中略)過去の経験は教訓として生かされてこなかったのだ。」*2と述べ、「ニューカマー」の子どもたちに対しても、同じことが繰り返されていると指摘している。

当事者からのこうした厳しい指摘を受け止めようと、一方で、「外国につながる子ども」たちが母国の言葉や文化をもち続けるための支援を行っている教師もいる。

横浜市では、1992年に市内の在日韓国・朝鮮人の子どもたちの交流と、母語や母国文化にふれる機会をもつことを目的に第1回「ヨコハマハギハッキョ」(夏季学校)が開かれた。これは前年に出された「在日外国人(主として韓国・朝鮮人)にかかわる教育の基本方針」の実質化を図る教職員側の動きとして今日まで続いている。93年には、急増する日系外国人児童生徒同士の交流を図る目的で「外国人児童生徒保護者交流会」(IAPE)が設立され、母語教室を開催したり、交流会を開いたりしている。IAPEの活動の一つに「沖縄へルーツを探る旅」がある。この旅の目的は、沖縄からブラジル、ペルー、アルゼンチンなどに移民した日系2世・3世の子どもたちが、祖父母の故郷である沖縄を訪れ、自分のルーツと出会う旅である。自分の出身国と日本との間で揺れ動く子どもたちが、沖縄の人々や自然との出会いを通して、自分自身のルーツを肯定的にとらえ、自信をもてるようになる様子が「人権についての教育」の可能性を示す実践として興味深い。どちらの活動でも、教師が中心的な役割を果たしている。

ではベトナム人の子どもたちが民族的アイデンティティを獲得する場は保障されているのであろうか。

インドシナ難民の子どもたちが多数在籍する大和市立下福田中学校では、「外国籍の生徒たちのための学習」を教育課程内に位置づける観点から、2001年から選択教科「国際」の学習に取り組み、ベトナム人、カンボジア人、ラオス人、中国人スタッフやボランティア、研究者の協力を得て、各国の歴史や文化を学ぶとともに、自分や家族のルーツを調べ、自尊感情の回復やアイデンティティの形成を支援していこうとする実践を行っているという。この取組に関わる外国人の子どもたちは「すたんどばいみー」というグループをつくり、日本人スタッフとともに母語教室や学習教室などを運営している。

同じく中国帰国者やインドシナ難民の子どもたちが多く住む横浜市泉区上飯田中学校区では、上飯田中学校、上飯田小学校、飯田北小学校、いちょう小学校の4校が連携して、「児童生徒交流会」を開催し、子ども同士の交流を図るとともに、ベトナム語やベトナム文化の保持継承を目的とした活動に各校が取り組んでいる。また、この地域のボランティア団体「多文化まちづくり工房」が開催する日本語教室や学習教室には、多くのベトナム人の子どもたちが参加しており、ベトナム人としてのアイデンティティを確認する重要な場となっている。

こうした取組は関西でも行われている。中国帰国者や定住ベトナム難民の子どもたちが在籍する八尾市立志紀小学校では、日本語指導と並行してベトナム語による支援授業を行っている。当初はいじめに遭うことを恐れて、自分がベトナム人であることを隠していた子どもが、ベトナム語の支援授業をきっかけとして、自らのルーツを堂々と語れるようになったという。志紀小学校の地域にはNPO法人「トッカビ子ども会」があり、ベトナム語講座を開催して、子どもたちへの母語保障を行っている。

このように、ベトナム語やベトナム文化に関する学びを教育課程の中に位置づけ民族的アイデンティティを確立しようとする取組はベトナム人の集住地域を中心に積極的に行われている。各校の取組に共通することは、学校だけでなく、保護者や民族講師、地域で活動するボランティア団体等と連携協力することで高い効果を上げている点である。

*2 ペイアン「外国籍県民かながわ会議から見える国際理解」『教文研だより110』神奈川県教育文化研究所 2003年

(3-2)在日ベトナム人の「人権についての教育」の課題と可能性

しかし、ベトナム人の子どもが少ない地域では、日本人と同様に扱われているケースも多く、日本語がうまく話せないことや、日本名でないことに劣等感を抱き、ベトナム人であることを肯定的にとらえることができない子どもたちも少なくない。

こうした課題を解決するために、「人権についての教育」を教育課程に位置づけるとしたらどのような実践が可能なのか、歴史学習を手がかりに考えてみたい。

ベトナムは、紀元前3世紀頃、秦に支配されて以来、およそ1000年にわたって中国の歴代政権の支配を受け続けてきた。ベトナムではこの期間を北属期とよんでいる。北属期においても、中国の政権の力が弱まった機に乗じて、再三反乱を起こし、常に独立の機会をうかがっていたが、初めて独立を果たしたのは、ゴクエン(呉権)将軍であった。ゴクエン将軍は、939年南漢(909〜971年)との独立をかけた戦いで、あらかじめ満潮時に隠れるように杭を打っておいたバクダン江に南漢の大船団を誘い込み、潮が引き始め杭に刺さって動けなくなったところを一気に攻めて打ち破った。これを機に将軍は王を名乗り、中国の支配から独立した。その後も元(1271〜1368年)や明(1368〜1644年)などの干渉を受け、支配に屈することもあるが、その都度独立を回復している。

近代以降のベトナムは1883年〜1944年に及ぶフランスの植民地支配を受け、太平洋戦争中の1944年〜45年にかけては一時日本の支配下にも入る。戦後は再び植民地支配を目論むフランスと独立をかけて戦い、さらに冷戦構造の中で、共産化を阻止したいアメリカとの間でベトナム戦争を戦い、最終的に独立を勝ち取っている。

このようにベトナムの歴史は、他国からの侵略とそれに対する抵抗の歴史と見ることもできる。しかし、こうした歴史を日本の学校で体系的に学ぶことは難しい。そこで13世紀の元との戦いを題材に、ベトナム人の侵略に対する抵抗の歴史を学ぶ授業を考えた。

なぜ元との戦いを取り上げるのかといえば、日本の歴史と関連づけて学べることと、ベトナムが3度に及ぶ元の侵略を打ち破り独立を維持する過程を通して、侵略に対する粘り強い抵抗という、今日に通じるベトナム人の民族性が理解できると考えたからである。

元は日本に侵攻したのと時を前後してベトナムにも3回侵入している。ベトナムは元の圧倒的な兵力の前に、いずれも首都を奪われているが、1285年の2回目の侵入時には、50万人以上の元軍に対し、ジャングルや山間部に身を隠してのゲリラ戦を展開し、ついに元軍を撤退させている。また3回目の侵入時(1287年)には30万人の兵力と500艘の船団を相手に勇敢に戦い、10世紀に中国から初めて独立を果たしたゴクエン将軍と同じ戦法を用いて、バクダン江の戦いで元軍を敗走させた。

3回に及ぶ元軍の侵入に対し、ベトナム軍の指揮を任され、勝利に導いたのがチャンクォックトアン(陳国峻)将軍である。チャン将軍の戦いに対する教えは、近代以降のフランスやアメリカとの戦いにおいても語り継がれ、圧倒的戦力をもつ欧米列強を相手に、最後は勝利を収めている。

こうした学習を通して、民族としてのベトナム人が「勇敢で戦略に長けた独立心の強い抵抗者」であることを理解していくことで、ベトナム人の子どもが自らのルーツを肯定的にとらえ、自信をもって生活できるようになればよいと考えた。詳しい指導計画は別紙資料に収録する。

「在日ベトナム人を中心とした人権教育の課題」資料 (PDF228KB)

3.研究のまとめと今後の課題

本研究を通して明らかにしてきたことは、ベトナム人を含む「外国につながる子ども」たちが、社会的にも、経済的にも、また学校においても、非常に厳しい状況におかれているという現実の一端である。全ての人に保障されるべき「人権としての教育」が保障されていない背景には、日本人と外国人の人権を同等なものととらえない差別的制度や考え方があることがわかってきた。私たち教師は「人権としての教育」を自らの手で確立してきた「オールドカマー」や被差別部落の人々の差別への抵抗の歴史や実践に学びながら、差別を温存する制度や意識を変えていく必要があると強く感じた。

一方「人権についての教育」では、ベトナム人の、侵略に対する抵抗の歴史を振り返ったが、ベトナムの歴史を教えるためには乗り越えなければならないいくつかの課題がある。まず、日本の公立学校の教育課程にはベトナムの歴史に言及した部分がほとんどないという課題。そして、私たち教師の多くはベトナムの歴史について、断片的にしか知らないという課題である。実際、筆者自身も本研究を通して、初めてベトナムの歴史に本格的にふれ、幾度となく他国からの侵略を受け続けてきたことを学んだ。そして太平洋戦争中は日本もベトナムを支配していた事実にも出会った。今回は元との戦いを題材としたが、今後、太平洋戦争中の日本の進駐や、ベトナム戦争の支援という事実にも目を向け、ベトナム人の抵抗の歴史を日本との関係でとらえていくことも必要である。

今回の研究は、ベトナム人の子どもに焦点を当て、学校だけでなく、社会的なレベルでの差別実態の解明を行い、課題解決への道筋を探った。こうした手法は、民族や国籍の異なる全ての子どもたちの現状と課題を把握するためにも有効であると考える。研究の成果を生かしながら、今後とも「外国につながる子ども」たちが、自らのルーツを肯定的にとらえ、自信をもって生活できるような授業づくりや学校づくりを進めていきたいと思う。

<主な参考資料>

付記:本稿は横浜市教育委員会の一般派遣研究生事業(人権教育)により東京学芸大学で2005年度に行った研修の成果をふまえ、まとめたものである。